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2004.05.14

短編小説:文月の頃

 淡い炎のかけらを薄墨の空へ蒔きながらすう、と目の前を横切る。
 蛍。
 ねえ珍しいわね、と彼女が僕の袖を引っ張る。
 最近はあまり見かけなくなった蛍も小さい頃は良く見た気がする。
 でもそれは僕のなかで一つの事が鮮烈に残っているからかもしれない。
 ケイコさん。小学生の頃のことだ。
 家はその頃、下宿屋みたいなことをしていて、ケイコさんはその最後の下宿人だった。

「なあ正太、おまえんちに幽霊居るってほんとなん」
 克也が聞いてきたのは梅雨の明け頃だった。
「幽霊やって? うちの裏が神社やって知ってるやろ自分。鎮守の杜あるから夏場なんて蝉の声でそんなんどっか行ってまうぞ。せやし、お化けなんてのは、どっちかっていうたら神社より、お寺とちゃうんか。第一住んどるのにそんなん見たこと無いしなぁ」
 そんな僕の反論に友人は口を尖らす。
「せやかて、おまえんち、学生相手の下宿屋しとるやんか。そんで昔自殺しよった人なんかが、恨めしいや、って出てくるんとちゃうかぁ」
 恨めしいや。
 克也が両手を前にぶらぶらさせて笑いながら言う。
「縁起でもあらへん。おまえ命知らずなやっちゃなー。知ってるやろ、うちのお父はんそれ聞いたら角生やして怒りよるぞ。そんな人おらんって。でもそんな話どっから出てきてんさ?」
 ええと、と克也がもそもそしている。
「なんや、嘘かぁ。もっとましなん考えろよ」
 克也の頭を軽く小突く。
「嘘とちゃうわ。実は見たんは俺やねん。ただ……」
 在らぬ方を向いてほお、としている。
「だからなんやねん。ただ、って」普段はなんでもずけずけ口にする克也にしては珍しい。そんな歯切れの悪さに僕は少しだけイライラが募った。
「……ちゃうねん。こんな言い方するはずちゃうかってん。ただ、おまえんちの門の中に入っていくひと、めっちゃ綺麗やってんさ。まるで……」
 まるで幽霊みたいに。
「誰やろ、下宿してる人おらんねん、今。いつ見たん?」
 三日ぐらい前かな、克也は言う。
 その日だった。帰ると離れに荷物が置いてあって、それを母さんと見知らぬ女の人が荷解きをしていた。
 ただいまあ、という僕の声に振り返ったその顔はとても綺麗で。
 幽霊なんて表現、下手だと思った。そう、まるであの人は蛍のようだと。
 お帰りなさい。
 幽かにひっそりと微笑む仕草。それがケイコさんと僕の出会いだった。

 ケイコさんはうちの二階に住んでもらうことになった。二階と言ってもうちの家は母屋内から上がることは出来ない。一旦外に出て玄関横に備えつけてある階段で上がる。だから二階と言えど実質離れみたいなものだ。というわけで下宿人とばったり母屋で顔を合わせるようなことはない。
 うちでは僕にも仕事がある。別に大したことじゃない。うちは賄い付きの下宿屋。そう、ご飯が出る下宿で、うちの下宿人は食いはぐれることがない。朝夕の決まった時間にいればのはなしだけど。僕の仕事はそんな下宿人達にご飯を知らせる役なのだ。
 だから今日も階段を伝ってケイコさんを呼びにいった。
 ケイコさんの部屋は丁度階段の隣で、上がると直ぐなのだけど、今日は呼びにいくまでもなかった。
 庭に出ると階段の横に二本の素足が突き出てぶらぶらしている。
 ケイコさんだ。
 正確にはケイコさんは窓枠に腰掛けて僕の方を見下ろしていたのだ。
「ケイコさん、ご飯だよ」
 見上げて呼ぶ。
 一秒、二秒。返事がない。この距離だし聞こえていないはずはない。
「ケイコさあん、ご飯、だよお」
 アクセントを付けてもう一度。
「……らない正太君、小母さんに伝えといて」
 ああ、今日もだ。ケイコさんは時々こう言う。でも今日こそはそうはいかない。
「あかんって、ケイコさん。今からそっちに行くからね」
 腕を捲る真似をすると僕はとんとんと階段をリズム良く上っていく。
 一呼吸して戸をノックする。
 はあい、と間延びた返事の後、ケイコさんが扉を開けてくれた。
 入ると青畳のいい香りがする。返したばかりのせいもあるけど。
「どうぞ。入っていいわよ」
 ケイコさんが手招きする。実は部屋に入るのは初めてのことなのだ。おじゃまします、と健全な男の子らしく、少しどぎまぎしながら部屋に入る。
 何だか拍子抜けしてしまった。女の人の部屋だと身構えたのだけど、何もなかった。想像していたようなクマの縫ぐるみだとか、女性らしさを感じさせるものは。
 小さな本棚一つと備えつけ冷蔵庫。それにベッド。その横に洒落たライティングデスク。カーテンレールのハンガー。一輪挿し、栞を挟んだ読みかけの小説。唯一女性らしい物といえば姿見ぐらいだろうか。
 ケイコさんは白いふくらはぎを無造作に畳床に投げ出し、ベッドに腰掛ける。
「そういえば正太君、この部屋に入るの初めてよね」
「話し、はぐらかさんとってぇよ。なんでご飯食べへんの? お母はんも心配してる。食べはってもちょっとだけやし、口に合わへんねやろかってお母はん」きょろきょろするのも格好悪いので、畳に腰を下ろしてケイコさんを見上げるかたちだ。窓から入る夏の風に部屋の空気が揺れる。微かに漂う香水の香りに、鼻先が何ともこそばゆい。
「……そうねえ、そんなことないわ。美味しいよ。小母さんに言ってもらえる? お心遣いは有難いですけど、ご飯は結構です、って」
 ケイコさんは何でもないように言う。
「いらんゆうたかってさ、でもな思うねん。他で食べたりしたら勿体無いやんか。お家賃の中に食事代入ってるし、せやったら」
 うふうふとケイコさんが笑った。年上の女性に憧れるほどませてはいないつもりだけど、(こういう気の回し方を或いはませてるというのだろうか)確かに克也がよろめく気持ちも分かる。
「優しいのね。別に他で食べてる訳じゃないわ。ちゃんとね食べてるよ。ほら」
 ケイコさんは冷蔵庫を開けて見せてくれた。
 エビアン。ヴォルビック。
 最初に目に飛び込み視界すべてを埋め尽くす文字。
 冷蔵庫のなかには殺菌詰めされた、水の壜だらけだったのだ。ちなみにこの頃はペットボトルはまだなかったと付言しておく。
「……ケイコさん」
 なあに、と首を傾けながら微笑む。
「これって全部ミネラルウォーターやんか。どうやったら栄養と結びつくんさー」
「そうねえ、でも私にはさしあたってこれで充分。満足なの」
 とてもそうは思えない。お腹が減っている所為かどうしても自分に置き換えて考えてしまう。
――でも人間に限らず、どんな生物に於いても栄養を摂取する。何かを犠牲にして食べることは生きていく上で必要なことなの。バランスをとるためいずれ何処かで帳尻を合わせなくてはならない。それが私達の生きる性。
 子供を産む為の栄養分として旦那を食べちゃう蟷螂の様に……。
 私は今は食べたくないの、水で充分――
「さあ、ほらほら。正太君は我慢できないんでしょ、早くご飯食べてらっしゃい。身体はやっぱり正直よね」
 ケイコさんが僕のお腹を指さす。気づかないうちにお腹はぐうぐうと鳴いていた。顔が熟れたトマトになる。恥ずかしさで弾けそうだ。
 戸口で渋る僕を送りだしながら、別にはぐらかすわけじゃないけど、とケイコさんは言った。
 今はこれで充分。今はね。

「なあ、変やろ? こんな調子やねん。いっつも。こんなんやったら身体壊すと思わへん」
 最近、克也と話す話題はケイコさんの事が多い。克也が聞きたがるので自然とそうなるんだけど。まぁ分からなくないではない。美人やから。《蛍》に《子供の子》でケイコさん。名は体をあらわすというか。
 さらさらとした素直な髪の毛は耳元で切り揃えられている。黒目がちな瞳というのか、ぱっちりとした光を吸い込むような黒瞳。スラックスや大きめのシャツを纏っていることが多いので、どこか華奢な少年に見える。
 只、克也には内緒なのだけど、たまに物凄く派手な格好で帰ってくることがある。そんなときのケイコさんは何だか恐い。根源的な何かが。
「せやな、めっちゃ心配や。でも俺、どうもこうも出来へんし」
 思い詰めたような克也の顔を見てると噴き出してしまった。
「何、可笑しいねんなっ!」
「だって、大丈夫やって。外で何か口にしてはるやろし、少なくとも心配して蒼褪めた顔の克也よりは健康的な顔色してる思うし」
 何となく、慌てた顔の克也を見てたら安心してしまった。克也は横で石を蹴りながら不貞腐れている。
「せや、正太。今度見に行ってもええか?」
「見る、やなくて会いにやろ。パンダちゃうねんから。別に構わへんと思うよ。うちに遊びにきたついででも」

 家に帰ると一回はケイコさんの部屋に行く。ご飯へ呼ぶ必要はなくなったが、様子を気にする克也の所為で 何だか習慣づいてしまったのだ。
 七時を少し回った頃の庭は、墨を掃いた様に薄暗く、裏の神社からはヒグラシの声が静かに聞こえる。夏の夜は好きだ。昼間とは違った生命の息遣いが感じられるから。
 とんとんと階段を上がり、ケイコさんの戸を叩く。
 微かに戸が開き、白い手が招く。
 真っ暗な部屋。
「どうしたの、ケイコさ……」
 ケイコさんの掌がすばやく僕の口を軽く押える。もう一方の人差し指を自分の唇にあてて部屋の奥に目配せした。
 
 焔珠。碧い燐光を振りまいて部屋を仄かに照らす。

「……うっわ、蛍やん。でもどないしたん?」
 うちの辺りは確かに都心と比べると環境はいい。しかし蛍となると難しい。家の近くに幼虫の棲める清流が無いのだ。蛍を見るためには少し遠出をしなくてはならない。
「夕方、窓を開けていたら飛び込んできたの。正太君が来るの分かってたから見せたげよ、って思って待ってた」待ってたの一言に克也じゃないけど、鼓動が少し早まる。
「でも、家の回りで蛍見たことあらへんし。変やなぁ」
「そうねえ、こう考えたらどうかしら。例えばね、よく駅のホームで鳩見るでしょ。一羽や二羽。でも、駅の外ではその姿を見ることはない。不思議よね。屹度これも同じ。居場所を誤って、迷い込んだ……」
 仮初めの住人なのだ、恐らく。
 私も。
「……え、なに?」
 何でもないよ、とケイコさんは目を伏せた。
 少し、空気が重い。そんな時閃いた。
「せや、ケイコさん、お水あげへん?」
 僕は台所で蛇口を捻る。少しカルキと黴の臭いを伴って、生温かい夏の水道水が流れ出る。それを小皿に酌んでベッドサイドのデスクに置いた。
 蛍はすう、と小皿に近づくが足をちょんと浸けると直ぐまた部屋の中を漂う。
「正太君、待ってて」
 ケイコさんは手を叩くとおもむろに冷蔵庫を開けエビアンの壜を取り出し、別の皿によく冷えたそれを注ぎ、小皿の隣にそっと置いた。

 ほーたる ほたる こっちの水はあーまいぞ こっちの水はかーらいぞ
 ほーたる ほたる こっちの水はにーがいぞ こっちの水はしょっぱいぞ

 暗がりに響くケイコさんの声に従うように両の皿を行ったり来たりしているうちに、ケイコさんの置いた皿に落ち着いた。
「やっぱり、同じ《蛍》だけあって、趣味が合うわね。こっちが気に入ったよう」
 嬉しそうに笑う。さっきの変な空気は何処かへ行ってしまったようだ。
 頃合いを見て克也のことを話す。ケイコさんは快く承知してくれた。
「克也って可笑しいねん。ケイコさんの事、幽霊やなんてね。どっか人とちゃうみたい、それぐらい綺麗やったって」
 ふうん、と頷くケイコさん。
 正直なのね、克也君って。良く見てる。
 僕にはその意味がさっぱり分からなかった。ケイコさん独特の冗談なのだろうと。僕は曖昧に笑った。
 さあ、お行きなさい。とケイコさんは閉めていた窓を開け放った。部屋の中のむっと熱の淀んだ空気が外気と混ざって、みるみる柔らかくなった。自分が解放されたのに気付いたのか、その空気の流れに沿うかの様に光点が外へと飛び出す。
 何だかその光の粒を見つめるケイコさんは郷愁でも感じているかのように視界から消えるまで僕の横で見つめていた。

 夏休みに入る数日前は短縮期間となる。その初日に予定を見計らって、克也をケイコさんと引き合わせた。克也は、柄もなくあがって殆ど喋ってなかったけど、ケイコさんは対照的にいつもどおりににこにこと微笑んでいた。
 年齢差の大きい二人にどんな共通項や話題があったかは知る由もない。とはいえ、何回かは僕の知らないうちに二人で逢っていたようだ。
 あの日までは。
 別れの日だ。ケイコさんとではない。
 克也との。
 珍しく、その日は克也が僕を遊びに誘った。ケイコさんを紹介してからは、僕なんかそっちのけだったのに。
 裏の神社の横手には山がある。僕ら二人はよく昆虫採集などで登った。秘密基地なんかを造ったりしたのもこの山の中だった。
 日差しの強い日だったが、陽が暮れはじめてからは心地よい風が吹き、汗を拭ってくれた。僕らはその中を目的の櫟林に向かって歩いていた。
 兜虫。鍬形虫。黄金虫。目当ての昆虫たちだ。
 ちょっとした秘密の場所が在るのだ。毎年この時期になると二人で此処を訪れた。
 ひときわ大きい櫟の木。ささくれだった注連縄をその巨体に巻き、雨風に脆くなった紙垂を胴に張りつけた、神社の御神木である。
 御神木といっても、この木の元には一年に一度の御奉納で神主さんが注連縄を取り替えること以外、人は訪れない。訪れることを許されない。
 簡単な理由だ。
 その櫟の木が崖に沿って節くれた腕を延ばしているからである。崖が崩れないのも櫟の根が地中深く根付いているからであり、その根も所々崖の斜面から顔を覗かせている。
 虫の楽園と言っていい。我が物顔の連中を今年も僕らは捕まえにきたのだ。
 小さな竹林の中を、克也を先頭で藪蚊の攻撃を野球帽で払いのけながら一歩一歩踏みしめていく。
 その時だ。
 ケイコさん。林を抜ける辺りで克也がぽつりと呟いた。
「……え、克也何か言った?」
僕は叩いても叩いても皮膚に吸い付く藪蚊と格闘中で克也の声を気にしている余裕なんかなかった
 克也が僕の声に反応したのか、前方の暗がりを懐中電灯で照らす。
 青黒く浮かび上がる御神木の背後に、
 目の錯覚だろうか、僕は目を擦る。
 ケイコさん。
 こんな所に居るはずがないのだ。この山は結構深く、夏場でも夕暮れを過ぎると真夜中の様にその表情を変える。もっとも昆虫達の宝庫なのだが僕ら以外にこんな時間にうろつく人間は他に知らなかった。
 何処か変なものを感じた。確かにそこにいたのはケイコさんだった。でも……。
 懐中電灯の灯じゃない……。
 青白い燐光に包まれていた。眸も微かに光を帯びているように見える。
 人間とは光るものなのか。それに、ケイコさんの表情がいつか見たときみたいにぞくりと背筋に感じさせるものがあったのだ。
 僕に気付くとケイコさんはいつものような笑みを浮かべて手招きする。それすらも……。
「克也―っ!」
 反射的に僕は叫んで克也のほうを見る。
 克也は気付かないのか招く手のほうにふらふらと歩み寄って行く。
「行ったらあかんって! 克也。そっちは」
 そうだ。何故気付かなかったのだろう。ケイコさんが立っている辺りには、
 地面がない。切り立った……。
「ケイコさん……克也! 早よ戻ってこい。なにしてんねん。帰ろうって」
 僕の声は二人に届かなく、虚しく木立に吸収されてしまう。追いかけようとするがそれも叶わない。足が竦んで動けなかったのだ。
 正太君も。向けられた眼差しがそう語りかけている。
 駄目だ、克也……。
 不意に足が動いた。二人のあいだに割って入ろうと飛び出す。
 楕円の鋸葉が行く手を遮り、容赦なく僕の頬を切り裂く。
 さあおいで。
 思うように進めない僕の目の前で、ケイコさんはその手を開き克也を抱き寄せる。
 呼び掛けに応えようともしない恍惚とした表情の克也。
「嫌だ。何するのさ、克也を返してよ。連れていかんとってっ」
 僕の声は殆ど声にならなかった。ただ、胸の中を冷たいものが支配していくことだけがはっきりと感触として残った。
 一歩また克也が前方に踏み込む。
 克也の姿がすうとケイコさんの身体に溶け込むような錯覚を覚え、
 瞬間、目の前でクリスタルグラスが砕けるように飛び散った。無数の蒼白い光点が櫟の姿を一瞬、目に灼きつける。
櫟の残影が瞳から消え、ようやく顔を上げた僕の前に克也が浮かんでいた。全身、扁平な焔の粒に覆い隠されている。
 焔を宿した褐色の甲虫。
 炎垂れる。
 克也を隈なく包む蛍の群れが、波打つように蠢く。
 一度だけ私達は罪を侵す。どんなものも帳尻を合わせる時が来る。
 ならば、
 喪失したケイコさんの声が森に流れ、
 ならば、今宵が我らの宴のとき。
 その声になにものかが唱和する。
 僕の目の前で褐色が克也の瞼の裏へと蠢動した。
 それに合わせて侵入を開始する。
 唾液の零れる口唇へと。温かな鼻腔へと。耳の奥へと。
 図らずして克也の全身から程なくしゃりしゃりと音が響き始めた。
 咀嚼音。
 壊れた悲鳴。

 あの後、自分がどうなったのか覚えていない。僕は境内に倒れていたところを有志の青年団員に発見されたそうだ。気付くと病院のベッドの上だった。余程衰弱していたらしく、身体が退院後も不自由した。
 その後、僕の言葉で崖下を中心に捜索が行われ発見されたとき、克也はこと切れて腐葉土に埋もれていた。言い渋る大人から断片的に聞きもれたところに因ると、時期が夏場であったのと夜露の所為で、一部で腐敗が始まっていたものの、表情が分かるほど屍体は綺麗だったらしい。また死因は僕の思っていた事とは違う、頚骨の骨折によるものだったそうだ。
 ならば、あの夜見たことは僕の錯覚だったのか。しゃりしゃりと死を招く音を今でもはっきりと思い出すことが出来る。しかし、本当のことは分からない。
ケイコさんといえば、僕らが山に登った日、下宿を出ていたと母さんが言っていた。それきりケイコさんは戻ってこなかった。
 一度、あの後ケイコさんの部屋に入った事がある。生活感の感じられない部屋に、存在を感じることは無かった。
 本当に此処で暮らしていたのかと疑いたくなるほどに。こと切れた冷蔵庫の中で生温かくなっていたエビアンが唯一の存在を思い出させたくらいだ。

「……ねえどうしたの正太?」彼女が言う。
 別に、と呟き、視線を炎のかけらに向ける。まあ、一夏の思い出には違いない。
「どうしたのかしら、先刻から正太に纏わりつくように飛んでる、気があるのかしら」
 錯覚だろうか。
 また逢えたわね。目の前の蛍がそういった気がする。
 駄目よ、私の大事な人なんだから。知ってか知らずか彼女がくすくす笑う。
 僕は無言で指先に停まった蛍を握り潰した。


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コメント

るるがさん>
いつも書き込みありがとうございます。
面白かった部分ってどこらへんだったのか聞いてみたかったりします(贅沢な注文してます^_^;)

KOFさん>
この小説のジャンル……
あまり考えたことはありません。甲斐がホラーを狙って書くのなら、もっとエゲツナイ(失礼)描写満載になるので。
超自然的青春小説(非常に曖昧)かなぁ m(__)m

投稿: 甲斐ミサキ | 2004.08.03 19:29

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